【社会人・日本史】北条氏はなぜ将軍になれなかったのか(東大のディープな日本史第7問)

日本史

こんにちは、タンタンです。

今回は、「社会人の日本史学びなおし」として、東大のディープな日本史の第7回を扱っていきます。

・学生時代、もっと真面目に歴史を勉強しておけばよかった。

・日本史を学び直したいけどどうやったら勉強したらいいの?

と悩んでいる方は一緒に学んでいきましょう。私も、理系選択者だったので高校で日本史はほとんど習っていません。社会人になってから、日本史を勉強しておけばよかったなぁと後悔して勉強を始めました。

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私が実践している勉強法は下の3冊を使います。

今回は第7回「北条氏はなぜ将軍になれなかったのか」です。

テーマ7:北条氏はなぜ将軍になれなかったのか

問題:

詳しい問題文・参考文は、東大のディープな日本史を参照してくださいね!
概要をいうと、鎌倉幕府の体制の中で
A. 摂家将軍や皇族将軍の存在を「北条氏と将軍との関係」と「反北条氏と将軍との関係」に注目して考える
B. 得宗が幕府の制度的な頂点である「将軍」になれなかった理由を「日本中世の身分意識」と関連付けながら答える
という問題です。

考え方のポイント

北条氏、反北条氏における「摂家、皇族将軍」の意義とは

まず、鎌倉幕府を開いたのは源頼朝ですが、源氏はわずか3代で途絶えてしまいます。その後は有力御家人の北条氏による「執権政治」が行われました。

そもその「執権」、「執権政治」って結局なんだったんだろう。

執権:元々は、院政を実務を支えた院司の長(別当)であったが、幕府では、政所、侍所の別当を兼ねた北条氏の地位を指すようになった。
執権政治:執権北条氏が実権を握った幕府の体制。1203年時政の政所別当就任に始まり、13年に義時が侍所別当を兼ねてから本格化。泰時・時頼の代に、最も安定。蒙古襲来後は得宗専制に傾いた。

そして、資料文1では、「将軍の後見人として、幕府の実権を握った。」という記述がある通り、北条氏の実権は、「将軍を補佐する御家人のトップ」という地位に紐づいていることがわかります。しかし、実際は資料文2や3にあるように、将軍の任免権を握る絶大な存在だったことがわかります。

部下が社長を辞めさせる権利を持ってるってスゴイですよね。

一方で、三浦氏などの反北条氏の勢力としても、「将軍」の存在は拠り所だったことがわかります。

三浦部長:「社長(将軍)〜、北条部長にガツンと言ってくださいよ〜」的な感じでしょうか。

北条氏が将軍になれなかった理由

資料文5: 日本中世の身分意識

1333年、護良親王が幕府討伐の呼びかけで、得宗(北条氏嫡流)の事を【伊豆国の在庁官人北条時政の子孫の東夷ども】と呼んだ。

めちゃめちゃ悪口言いますね!

一般的に得宗といえば以下の様な説明がされます。

得宗: 北条氏嫡流の惣領家のこと。名称は2代執権義時の法名である「徳宗」に由来するといわれる。自ら執権となる以外に、実権を保ちつつ北条氏支族を執権に任命する権限を有した。

ただ、ここで注目すべきは「伊豆国の在庁官人」という部分です。在庁官人は地域に土着する豪族や武士が任命される役職です。鎌倉幕府の政治システムは将軍ー御家人を中心とした身分制度に基づく封建制度にあります。そこで、一国の武士の系譜に過ぎない北条氏が「名目上」のトップになる事は許されず、執権あるいは得宗として「実質的」に権力を握る事で利益を最大化していたことがわかります。

解答メモ

これをまとめると、

北条氏、反北条氏における「摂家、皇族将軍」の意義:
・執権として幕府の実験を握った北条氏は摂家将軍を名目上の存在とした。
・反北条氏は封建的主従関係をよりどころに彼らを倒幕の旗印にした。
中世の身分意識を踏まえた、北条氏が将軍になれなかった理由:
中世の天皇を中心とした、身分制に基づく封建制度の中で、一国の地方武士に過ぎない得宗が将軍になる事は、朝廷や他の武士が認めなかった。

というところだと思います。

まとめ

今回は、北条氏にまつわる歴史について勉強しました。「北条氏の○代執権は誰?」の様な問題はググれば一発で答えが出ます。これからの時代の勉強としてはやはり「なぜ?」に注目して、時代の流れを捉えていくことが大事だと思っています。

次回は「元寇」の真実について。
果たして武士達は「お国のため」に命をかけたのか?
モンゴル軍を破った原因は神風だけなのか?
この辺りが明らかになります!!

前:問6. 摂関政治と院政の違いは何か?
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